風のワルツ

宝塚歌劇、楽しくブログで綴ります。

アントワネットとエリザベート〜退屈を恐れた2人のプリンセス ②「最後のフランス王妃」

 

前回のブログ記事①には反響をいただき、その余韻が未だ続いていることに改めて2人のプリンセスへの関心の高さがうかがえます。

ここからは1人ずつ追っていきたいと思います。

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①はこちらです↓ 

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悲劇の王妃マリー・アントワネット

 

まずは14歳で王太子妃となり18歳で王妃の座についたアントワネットの生涯をコンパクトにまとめてみます。

 

幼すぎる王妃

前王妃は敬虔で慎ましい女性でしたが魅力に欠け、民衆は若くて美しい王妃に希望と夢を抱きました。

王妃は宮廷の古いしきたりを嫌い自分のやり方を取り入れていきます。
例えば娯楽係に命じて毎週芝居3回、舞踏会2回開かせたり、
年老いた人や退屈な人は宮廷から追放したり。

彼女の日常は遅くに目覚めベッドでコーヒーを飲みパンを少しかじる。
化粧と着替えが終わると新作のドレスの打ち合わせ、肖像画のためにポーズをとる、宝石を買う、親しい友と会う。
午後は礼拝堂で国王と会い、しばしばパリへ行きオペラ座んどへ出かる・・うーん、やりたい放題ですね。

一方国王は朝早く起きて仕事、読書、狩りの準備、錠前作り。←真面目。
若い国王夫妻には何一つ共通点はありませんでした。
結婚から8年後に1人目の子を授かり4人の子の親になりますが、1人目の王子は幼くしてこの世を去ってしまいます。

 

王妃のとりまき

彼女はお気に入りの取り巻きに囲まれて過ごすようになります。
特に寵愛を受けたのはポリニャック伯爵夫人
素晴らしい美貌と物憂げな気品は王妃を魅了し、ついには夫人をヴェルサイユ宮殿内の住居に住まわせますが、特定の人への行き過ぎた優遇は皆の避難の対象に。

王妃への手紙にて母親のマリア・テレジアが苦言を呈しています。

1780年1月15日
(略)例えばポリニャック夫人は、もっぱらあなたの寵愛を得ているというだけのことで、伯爵領ビッチェを公爵領に格上げすることを求めているというのです。世の中はこのような要求を知って唖然としています。
これはあなたを敬慕してのことというより、強欲のなせるわざだからです。また、あなたは夫人に何百万ものお金を与えるつもりだ、という話も伝わっています。(略)

1780年4月1日
(略)あなたは優しい心の持ち主である為に、親友気取りのこの女友達の強欲に、それもまさに現在という微妙な時期に、引きずりまわされているのです。
私があなたに警告しなければ、いったい誰がするのですか?(略)

 

引用元:パウル・クリストフ (2002)
マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡
岩波書店 387-396 

この年の11月3日付けの手紙が最後となり、マリア・テレジアは63歳で世を去ります。
アントワネット25歳。

娘の行動や評判をずっと気に病んでいたのでしょうね。
アントワネットがもっと耳を傾けて入れば・・。

 

プチ・トリアノン

アントワネットは理想的な空間を求め膨大な費用をかけて離宮のプチ・トリアノンを作り上げました。
音楽会もよく開催されてグルックやピッチーニ、サリエリなど厚遇されました。

庭園内には小さな劇場を作り、選ばれた人たちと「貴族一座」を作り、王妃がトップスターとなって毎日熱心に稽古をしました。驚きですね。

さらに池や塔、球技場、家などを作ることでアモーと言われる「村落」を完成させます。

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アモー(村落) 綺麗ですね。 

しかし、庭師や建築家たちによって本物そっくりにつくられたこの村落は、けっして現実の田園風景を表現したものではなかった。
あくまでも上流階級の人びとが、洗練された贅沢を味わうための理想郷にすぎなかったのである。その意味で、この村落はこっけいなしろものだったといえる。
そしてこのような形でしか自然回帰という概念を表現できなかったことは、彼らが自分たちの外に広がる現実の社会に対して、全くといっていいほど関心がなかったことを物語っていたのである。


引用元: アブリーヌ・ルヴェ (2001)
王妃マリー・アントワネット
創元社59

プチ・トリアノンでの至福の時間。
アントワネットは自分の周りのことにしか関心がなく、ただただ退屈することを恐れていたのです。 

王妃の私的な集まりに参加してた文筆家ブザンヴァル男爵は「回想録」でこのように書いています。

ー王妃には非常な才気がある。しかし教養という点からみると彼女には全くそのような素養はない。(略)まじめな話をしようものなら、彼女の顔にはうんざりした様子がありありと浮かび、会話そのものが続かなくなってしまう。彼女の会話は支離滅裂で気まぐれで次から次へと話題が飛ぶ。

 

フェルセン伯爵

王妃とフェルセンの出会いはともに18歳の時。
4年後に再会し、彼女はプライベートな集まりに彼を加えました。
彼は王妃の寵愛を避けて1780年、フランス軍に志願しアメリカへ渡ります。

フェルセンがアメリカへ出発する直前の王妃の様子をスウェーデン大使は次のように報告しています。
「王妃が彼に愛情を寄せられていることを私は信じずにいられません。
あまりにも確かな証拠をいくつも見ましたので、それを疑うことができないのです。(略)
別れの日が近づくと、王妃は彼から目を離すことができず、その目は涙にぬれてました。」分かりやすいですね。

一方、その3年後、フェルセンは妹に打ち明けます。
「たとえ不自然であっても、私はけっして結婚しないだろう。(略)
私がその人のものになりたいと思っているただひとりの人、私を本当に愛してくれる唯一の人、その人のものになることが私にはできないのだから」
女性にモテモテの彼ですが、出会ってしまった・・としか。

不思議ですがアントワネットとフェルセン伯爵の関係は、諷刺文書より歴史書に多く取り上げられているようです。


「マリーアントワネット」エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン(1783)

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首飾り事件

期待された王妃も1775年頃には浪費家で軽薄な女性として風刺文書の対象になってました。
王妃は国民のことは何一つ関心を示さなかったし、
温厚な性格のルイも国民が求める理想の国王からはほど遠かったのです。

そして起こったのが首飾り事件、1785年。
経緯は省きますが、王妃を巻き込み奇想天外な事件へと展開していきます。

最後は裁判沙汰になりフランス中大騒ぎとなり、終わってみれば被害者である王妃の不人気を露呈することになり、アントワネットを深く傷つけたそうです。

 

フランス王政の終焉 

凶作による社会不安はますます拡大し、1789年パリの民衆が反乱を起こして圧政の象徴であるバスティーユ牢獄を襲撃します。

ついに革命が勃発、国王一家はパリのチュイルリー宮殿で過ごすことになりました。

その後フェルセンを頼りに国王一家は亡命しようとしますが、国境近くのヴァレンヌで見つかりパリへ連れ戻され囚人となります。

やがて国王と王妃の目の前でフランス王政は崩壊してしまいました。

家族はタンプル塔に投獄され最後の時を過ごします。 

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1793年1月20日、処刑前夜に別れを告げるルイ16世
「ご家族全員が国王陛下の腕の中に飛びこまれた。数分の間陰鬱な沈黙が漂ったあと、すすり泣きの声が広がった」(ルイ16世の召使クレリー)

 

アントワネットの最期

7月、アントワネットは息子と引き離され、悲しみのあまり喪服を着たまま口も聞かず、部屋の中を亡霊のように彷徨う日々を送るようになります。

8月、彼女は重罪犯収容するコンシェルジュリーに移され独房に入る。

10月、裁判が始まる。アントワネットは青ざめながらも威厳に満ちた姿であったという。
次々と「オーストリア女」が犯した罪状が読まれる。

10月16日アントワネットは断頭台へ向かう荷馬車にのる。
12時15分、顔は青ざめ目は充血していても背筋は伸ばし挑戦的な態度で階段をのぼり、頭を振り帽子を落とすとギロチンの刃の下に首を置いた。

彼女の最後の言葉は、処刑場で役人の足を踏んでしまった時の「お許しください。わざとではないのです」と言われています。

 

フェルセン伯爵のその後ですが、生涯独身のまま祖国スウェーデン王元師となり栄達の道を歩みます。
しかし6月20日、あのヴァレンヌ逃亡の日、王太子を毒殺したと疑われて、民衆に虐殺されます。

 

美貌の王妃

 

アントワネットが何より望んでいたのは、優れた王妃になることではなくてフランスで1番美しい女性として人々に認めてもらうことでした。

毎年170着のドレスを新調、常に当時のファッションリーダーでした。
またブーフという高く結い上げられた髪の上に更にクッションをのせてボリュームを出す髪型を好みました。

バラやスミレの香水を愛用し、寝るときは手に軟膏や保湿剤をぬり手袋。

食事は朝はケーキ、昼は魚や肉など食べ、夜はスープ
身長154㎝、ウエスト58㎝、バスト109㎝(30才を超えると少しふくよかに)

顔立ちは整ってはいなかったけど、輝くばかりの白い肌と眩い金髪を持つ非常に魅力的な容姿だったと言います。

 

マリー・アントワネットは宝塚でも『1789−バスティーユの恋人たち』や『ベルサイユのばら』などでヒロインになってますね。

『ベルサイユのばら』は池田理代子さんの劇画が原作ですが、オスカルなど架空の人物は登場するものの、かなり史実に基づいたストーリーになっていると思います。

悲劇的な美しい王妃として、私たちの興味を掻き立てられる存在のアントワネット。

フランス王妃としての器量は備えてなかったけれど、彼女の生き方は当時の貴族的な生き方の象徴ともいえ、最期の瞬間までそれを貫いたことには胸打つものがあります。

 

アントワネットが亡くなって44年後の1837年のドイツに、後にオーストリア皇后となるエリザベートが生まれます。

 

エリザベート編に続きます。(長くなりました〜!)

 

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